丸木美術館とハンセン病資料館と。

個人的な備忘録のようなリンク集のような記事ですが、長くなったので目次を使ってみる。

丸木美術館

4月中旬に、原爆の図 丸木美術館に企画展「趙根在写真展 地底の闇、地上の光―炭鉱、朝鮮人ハンセン病―」を見に行った。

美術館は、埼玉の東松山市にある。それがどこなのかはっきりわからないまま、乗換案内に従って電車に乗っていった。川越よりも川越市よりも先(二つの駅は違う)、「つきのわ」駅から徒歩30分。google mapに従って歩くと、ずいぶん細い道を案内され、雨上がりの道の脇では熱帯地方みたいなサイズ感の笠を被ったご近所の人が草の手入れをしていて、内心ここ通ってよかったのかな…と思った(挨拶はしました)。とにかく素朴な環境の中に美術館があった。

企画展「趙根在写真展」

企画展は、広い展示スペースに、1960年代から1980年頃までに全国の複数のハンセン病療養所を訪問して写真を撮影した趙根在さんの写真を並べていた。写真は療養所ごとに分かれていて、生活の一場面だったり、風景だったり、入所者の方を正面から撮ったりしているものもある。全てモノクロで撮影されている。
趙氏は在日朝鮮人の入所者の方の撮影という条件から始まって、関係を築く中で、それ以外の方の写真も撮るようになった。あまり気負った感じがしないというか、日常風景は自然であり、入所者の方ともきちんと向き合っている感じがする。
図録は写真以外の部分も充実しており、過去に雑誌に連載していた趙氏の回想録「ハンセン病の同胞たち」に結構なボリュームを割いている。これは療養所の撮影に至る前の、氏の炭鉱で育った幼少期からの来歴を語るもの。そして療養所関係でも、単純に「入所者の方の撮影」「関係を築く」と書いてしまったけれど、生のエピソードはそんな言葉に要約できるものではないと感じさせられる内容だった。
展示のキャプションにも書いてあるとおり、最初の撮影は、病気の後遺症で障害の残った男性が、介助してもらいながら煙草を一服する場面。手が不自由なため、三つ切りにした短いものを、キセルに挿して火を移してもらって味わっている姿だ。その場面を急に撮影させてもらえることになったときの、戸惑いとか必死さが回想録にはありありと書かれているし、またこの撮影対象となった方の人生においてそれはどういう場面だったかということも、わかる。
先行する写真集として『離された園』(岩波写真文庫 1956)という写真集があり、これについて趙氏は回想録の中で、文面・写真ともに血が通っていないと表現していた。この写真集は、厚生省から岩波に療養所に関する1冊を編むように相談を受け、療養所に暮らす方々が自ら写真を撮ったもの。岩波写真文庫シリーズの1冊で、2008年には復刻版が出ている。
復刻版を眺めてみたけど、確かに今でも誰かが何か公的な記録の写真を撮ろうとして、配慮したらこうなるだろうと思わせるものだった(仕事で、記録のため顔が映らないように写真を撮らせてもらったことなどがあり、同じ気配を感じる)。けれども天下の岩波写真文庫に入れば多くの人の目に触れるだろうから、無理からぬことだと思う。
性質の違いを考えると、趙氏が思い立って行動したことから、1960、70年代の写真が残されて、こうしていま見ることができるのは、とても貴重なことだった。

常設「原爆の図」

丸木美術館は原爆の図の1部から14部を常設展示している。私は1階の展示室にある第9部「焼津」・第10図「署名」から見始めて、1階常設展から趙氏の写真展を見て、その後に2階の原爆の図に回った。いわゆる一般にイメージされる、原爆直後の広島の情景を描いた図は、2階に多く並べられている。
原爆の図は、屏風のように仕立てられていて、大きい。近づいて細部を見てしまったので、2階の絵はあまりにもつらく、もういっぱいだ、という気持ちになった。
「焼津」「署名」は第五福竜丸に関連した作品で、特に「焼津」は画面の左隻に町の?人々が立ってもの言いたげにこちらを見つめており(右隻に第五福竜丸が影のように浮かんでいるのでそれを見ているのか)、前に立つと何か問いかけられているような気がした。因みに『《原爆の図》のある美術館』(岡村幸宣 岩波書店 2017)によると、1967年の画集では「作者の強い希望」で「焼津」「署名」を収録から外したそうで、必ずしも評価が良かったわけではないらしい。ただ、後から思うと、「焼津」「署名」には日常を暮らす人が描かれているが、それ以外の絵では、衣服から何から、個々の人間であることを奪われた状態の人々が重なったりもつれたりしている姿が現されていて、写真を見た流れとのギャップで、ショックだったのだろうと思う。あとは、女性があんなにも多いのは現実の姿なんだろうかと感じてしまったのも、色々な意味で、つらい。
最後のほうで、引きで見れば、もう少し全体を見られる、ということに気づいた。
ちなみに、私が行ったときは基本人が少なくて静かな空間だったけど、昨今の大学生の社会への関わり方について、ある展示室のスタッフの人?に何か持論を述べている来館者?の声がずっと、別のフロアまで響いてきた。それがどうにも耐えがたく、その声がする部屋には入れなかったため、そこで何をやっていたのか不明なままだった。
私が至らず、施設の持つパワーに負けてしまった感じがした。
大道あやの絵があるのはほっとした。

 

国立ハンセン病資料館

5月3日に、国立ハンセン病資料館の企画展「ハンセン病文学の新生面 『いのちの芽』の詩人たち」を見に行った。
ハンセン病資料館自体は、去年「生活のデザイン」で初めて訪問した。その際に常設展を見たので(これは必見)、今回は企画展に集中することにする。
秋津駅の近くのエジプト料理屋さんでランチをいただいて、20分ほど歩いて1時頃には着く。そこから小1時間展示を見ながら、2時からのギャラリートークを待っていた。担当学芸員の方によるギャラリートークは30分程度、定員は10名、事前予約なしとのことだった。時間が近づくにつれどんどん人が増えてきて、定刻には展示室の外にたくさんの人が待機していた(私は展示室の中にいたので、出てみてちょっと驚いた)。そこで急遽、2時からと3時から、2回に分けて実施ということになり、私は3時からの回でも大丈夫だったので、更に小一時間、受付に詩集をもらいにいったり、図書室で関連資料を見たりしながら過ごした。

展示「ハンセン病文学の新生面『いのちの芽』の詩人たち」

『いのちの芽』は1953年に刊行された詩集で、全国8つのハンセン病療養所から73人が参加している。各療養所でそれぞれ文芸活動が行われ作品が発表されていたが、合同詩集としては初めてのものである。
北条民雄などに代表されるような戦前の文学をも乗り越える意志で、創作活動をする人々が現れたことなどが紹介されている。詩のパネル(全作品ではない。22人の25作品)がテーマに分けて展示され、作者の簡易なプロフィールのパネルと、自筆の書簡などが示されている。
また、参加した詩人たちのその後の活動が紹介されている。ハーモニカバンド「青い鳥」を結成した近藤宏一(小島浩二)さんや、長島愛生園の架橋運動の際に「人間回復の橋」と詩の言葉によってネーミングした島村静雨、国賠訴訟の原告となった人々など。

ミュージアムトーク

オンライン版があるのでぜひ見てほしい。

「ハンセン病文学の新生面 『いのちの芽』の詩人たち」をめぐって」/木村哲也(国立ハンセン病資料館学芸員)ミュージアムトーク2022(オンライン開催)第6回 - YouTube

ミュージアムトークを聞かなかったら思い至らなかったな、という点が私には多々あったので本当に聞けて良かった。会場で伺った内容と、動画(資料紹介や質疑応答は+αとなっている)でわかった内容と、両方あるが、次のようなところ。

  • 「いのちの芽」の原稿は失われているが、編者大江満雄の遺品が高知県立文学館に寄贈されていて、目録から、大江宛の書簡の中にハンセン病療養所の詩人の方のものが含まれていることがわかった。私信なので公開は難しいと考えられたが、関係者(ご遺族や、園の方)の許可を得ることで展示することができた。(こういう経緯で展示が企画されていたんだな、というのがわかって、よかった。あまり自筆書簡類に注目していなかったので…。)
  • 復刊に当たっても、各作者の関係者に許可を取る処理を行い、復刊することができた。
  • ある詩人は、戸籍上の性別は男性の方、ペンネームは女性のようでもある。(この方は、著者パネルには髪の長い女性のような人の写真が載っていて、「名女形」と書かれていて、自分で見たときに「…?」と思ったので、なるほど、と思った。自身の生前の本にも写真を使っており、園では有名でもあり、展示に当たって隠すことではないと判断されたらしい)
  • 大江満雄さんの写真は、入所者の家に上がり込んで親しく話している写真であり、当時としては画期的な姿。
  • 動画からわかったこと:在日朝鮮人に対する差別が激しかったため、『いのちの芽』刊行の頃は、出自を明らかにしていなかった人が多くいた。国民年金法の施行(1959年)から、日本国籍の有無で経済格差が大きくなり、民族運動等が盛んになった。(趙氏が写真を撮り始めたのもこの後だなあ、と思った。趙氏の写真が展示パネルのプロフィール写真に使われている作者もいる)

『いのちの芽』とその詩人たちの作品

復刊された『いのちの芽』は、来館した希望者がいただくことができる。私ももらってきたのでじっくり読みたい(前回受付で貰うという発想がなかった「生活のデザイン」の図録ももらうことができた。過去の刊行物も在庫があればいただけるようだ)。

元となった1953年三一書房版についても、国立国会図書館デジタルコレクションで送信サービス参加館・登録利用者公開されている。個人登録していれば自宅でも読むことができる。
いのちの芽 : 日本ライ・ニューエイジ詩集 - 国立国会図書館デジタルコレクション

もっと作品を読みたいと思ったときに、残念ながら本を出していない方もいる。その方々も、作品が園の文芸誌等に掲載されている場合がある。
そういうとき、国立ハンセン病資料館のデータベースのうち「ハンセン病療養所自治会及び盲人会発行「機関誌」目次検索システム」で、作者名を検索すると、どの雑誌のどの号に何を掲載しているかがわかる(データベースの使い方は、同館の機関誌ご利用ガイド参照)。機関誌そのものは資料館のサイトでは見られず、来館して図書室を利用する必要がある…と学芸員さんが説明されていた。
ただし、場合によると国会デジタルでも見られる可能性があるかもしれない。読んだものの中だと私は『闇を光に』(近藤宏一 みすず書房 2010)に掲載されていた「君の手」という詩が好きなのだが、この作品の初出は「愛生」1952年4月。国立国会図書館デジタルコレクションで誌名と年月指定で検索すると、こちらもやはり参加館・登録利用者公開でヒットする。
愛生 6(4);昭和27年4月號 - 国立国会図書館デジタルコレクション
検証していないのでどの雑誌がどこまでデジタル化されているかはわからないが…。
ちなみに国立ハンセン病資料館図書室はレファ協参加館ですね。

また、2001年の鶴見俊輔が大江満雄と「いのちの芽」の詩人たちについても話している講演記録「ハンセン病との出逢いから」を収録した『国立ハンセン病資料館研究紀要』第10号(2023年3月発行)はPDFで公開されているし、今回の展示の関連動画の多くは会期終了後もアーカイブとして残されている。

いただいた『いのちの芽』や関連動画、まだこれから知って感じて考えることがたくさんあるな、と思う。

終わりに・資料館のまわりの柊

かつて、多摩全生園の周りには、入所者の脱走を妨げるために、3メートルの柊の生け垣があった。今はほとんど刈り込まれているが、高いままに残っている部分もあるとミュージアムトークの際に伺った。その場所が具体的にどこだかはわからなかったけど、確かに外周は生垣に覆われているということに帰りに初めて気づいた。
今ひとつ、写真や展示で見た場所と資料館のその場所とが結び付いていなかったのだが、確かにこの場所なんだと実感がやっとわいた。全生園には今でも暮らしている回復者の方がいて、少なくとも昨夏は感染症対策のために一般の人は立ち入り禁止という掲示が出ていた(今回はどうだったか定かでない)。コロナの警戒態勢が解除になったら、扱いが変わるのだろうか。前回も今回も、資料館を見るだけでいっぱいいっぱいだったので、次に行くときにはもう少し資料館周辺のことも調べて、臨みたい。

ハンセン病資料館の近くの刈り込まれた柊の生垣

敷地の外周(地図で見ると矢嶋公園)の柊が高かった部分