板橋区立美術館「シュルレアリスムと日本」と板橋区立郷土資料館

前の記事から2カ月以上あいている…! あれ書いてこれ書いてということはあるのだけど、とりあえずBlueSkyに投稿したりしていました。

板橋区立美術館「『シュルレアリスム宣言』100年 シュルレアリスムと日本」を見てきた。
戦争に向かう近代日本の中でどんなふうに存在していたのかが少し分かったような気もするが、作家や作品自体についてももっと知りたかったかなあ、と思う。たぶんコンテキストがわかったほうがいい。わからん!となってしまったので。

ざっくりと気になった作品と、画像が載ったページが見つかったものはURLを貼っておく。

阿部金剛「Rien No.1」(1929)
fukuoka-kenbi.jp
シュルレアリスムの画家というよりは先駆者として紹介されていた。
空に浮かぶなんだかよくわからない物体と、断ち切られたビルなど。
リンク先の記事は結構面白かった。私は雲かな、動くの速いのかなと思って見ていた。

吉加江京司(清) 「葉(葉脈の構成)」(1939)
www.momat.go.jp
なんか好きだな。

石田順治「作品2」(1939)
岩場みたいな風景で、朱色のような、緑のような、色の加減がとても素敵だった。全然画像が見つけられなかった。

平井輝七「風」(1938)
collection.topmuseum.jp
カーテンらしきもののはためきから感じられる風と、奥にある扉(壁はない)と、それら全部の後ろにある空の具合が素敵。人間の頭の形?のオブジェはよくわからない。

堀田操「断章」(1953)
断章 / 水木しげる元ねたコレクション
なぜか「水木しげる元ねたコレクション」なるページで紹介されていた。水木しげる作品で引用されていたらしい。
荒れた前景と、遠くに見えるデパートのアドバルーンみたいなもの。それでも地面の隙間から出てきているのは植物の芽?

その後、隣にある板橋区立郷土資料館に寄った。入場無料だけど常設展で板橋の歴史がコンパクトに紹介されている。
今回は「いたばしの文人たち」というコレクション展をやっていて、全然知らない人だけど相沢朮という人の和歌の一つがちょっといいなと思った。
「ゆくりなくうれしきものはほとゝきす 人伝ならぬはつねなりけり」

歌「初聞時鳥」(相沢朮)

あと、新収蔵資料として「なりもす駅」駅名標が展示されていた。東武東上線成増駅が、2022年3月のモスバーガー創業50周年記念でモスバーガーとコラボした際のもの。モスの一号店は成増にあったのだそうです。

なりもす駅の駅名標

資料館の中庭みたいなところに旧田中家住宅が移築されていて、民具等々が所せましと置いてある。石臼を回したりしながら家の中を通り抜けて奥に進んでいくと、石仏みたいなものが並んでいて、その横にニリンソウのエリアがあるのも以前行った時と同じだった。赤塚はニリンソウの自生地だとのこと。
区の花ニリンソウ|板橋区公式ホームページ

ニリンソウ

…とそういう風に見ていて、外がいやにうるさいな動物のまねをしている中高生でもいるのかな、と外を見たら、道の向こうの家の塀からヤギが顔を出していて、全部持って行かれてしまった。顔を出してはめえめえ結構な大声で鳴いて、塀に絡んでいる植物の葉を齧っていた。

道路の向こうの塀から顔を出すヤギ

帰りに塀の前の道路まで近づいてみたら、塀の穴になってるところから顔を出してこっちを見ようとしてきた。わあーと思いながら見ていたら口をブッてされた。特にちょっかいを出したりはしていないけど、いるだけで嫌がられたかもしれない。

道路にいるこちらを見下ろすヤギ

行きは西高島平駅から歩き、帰りは下赤塚駅まで歩いた。西高島平側は高架沿いで面白くないけど、下赤塚方面は住宅地で、石仏があったり滝があったりして楽しいな。赤塚駅近くのモスバーガーで食事をして帰ってきました。

『金田一京助と日本語の近代』アイヌ研究とか規範的国語とか

昨年は9月からロングラン上映していた映画「福田村事件」を12月にやっと見に行ったのでそのことを書くつもりだったのですが、どうにもだめそうなので下書きに置いていた本の感想を上げていきます。

晦日から元日にかけて、『金田一京助と日本語の近代』(安田敏朗著 平凡社新書 2008)を読んだ。
第1章「問題のありか」で、アイヌ語に対する金田一の植民地思想的な認識、アイヌに対する偏見と収奪、また啄木の思想的転回を例に思い込みの強さなどを挙げていて、かなりうわっとなる。アイヌの問題については第2章がメインで、3,4章は金田一の言語観と歴史・社会認識を読み解くことで、5,6章の戦後の国語審議会における金田一の認識を論じている。

アイヌに関しては本当に、金田一京助の研究は、植民地主義のような社会的背景を抜きにできないということがわかる。(口承文芸を筆録としてのみ切り出して、場や語り手のしぐさを切り捨てたこと、そもそもアイヌ語にのみ関心を向けたことなどが指摘されている。知里真志保のことをもっと知りたい)

国語の表記で言えば、助詞「は」「へ」「を」が「わ」「え」「お」にならない点は、たしか自分は高校の授業で「さすがにそれはやりすぎと思ったから」と先生に教わった気がする。この本を読むと本当に何の説明もなく、ただどこかで妥協しなくてはいけないということで決めたようだった(どこかで整理しなければいけないことであったとは思うけれど)。
福田恒存との不毛な論争(1955-56年)の紹介では、相手が若いことに気づいた金田一が急に?高圧的になったことに関して、著者が「金田一の権威と年齢を楯とした、いやらしさ全開の文章である(こういうのを一度書いてみたいものである)」(p214)とコメントしていて面白い。本当にありえないくらい失礼な文章ではある。

共同語と、そこからさらに知識人の良識によって打ち立てられる規範的な標準語の話。蝿の「ハエ」「ハイ」に関するツッコミも楽しい。
著者自身は、良識…学者の善導によって規定される日本語に対して批判的で、だからそういう国語審議会の仕組みを作った金田一に対しても「(著者自身が)多少手慣れた分野である「近代日本言語史」のなかに置いてみると、そこでは「偉い」というより「エラそう」だ、ということだけははっきりしてきたように思う」(p269)とあとがきで述べている。

正直言って、もっと全体が金田一京助アイヌの話なのかと手に取ったので、この著者の専門分野の話は違うんだなあと感じないではなかったけど、興味深かったし勉強になった。研究成果をわかりやすく(わからないところはあったけど)書いて、新書の面目躍如という感じがした。あと、この方面白いな…と思った。
あとがきの初めて買った全集は折口信夫という話や、買った全集全部読んでない話も好きだ…私は全部読めないだろうから全集なんて買えないな、と思ってたので目が覚める思いだった。

ところで自分はこの2年半ほどゴールデンカムイにはまっている。映画も早速見に行ってなかなか満足度が高かったのだけど、原作者野田サトル氏のインタビュー(『ゴールデンカムイ』野田サトル、実写化に歓喜したキャラとは 完結を迎えた現在の思い【原作者インタビュー】|シネマトゥデイ)が旧ツイッターで少々話題になっているのを見て、ああそういえばこういうところは好きになれないんだったな…と思い出していた。「適材適所」のところと、あと「嫌いといっているアイヌはいない」のところ。作者に内輪で言う分にはまあいいと思うが、それを作者が、対外的に、インタビューで言ってしまうのか、と。
それで、『金田一京助と日本語の近代』で、有名なアイヌ研究家の死に関して萱野茂が「アイヌの人々のあいだから、一つとして悲しみの声は聞かれなかったよ」と書いている(「悲しまれないアイヌ学者の死」1972年)こと、それについて金田一京助を指すのではないかと推測している研究者がいる(斉藤力「金田一京助アイヌ 」『朝鮮研究 』112号 1972年 ※国会図書館デジタルコレクション送信サービスで読めます)ということを紹介していたのを連想した。その研究者の死が悲しまれなかったのは、自分の研究のために当事者を踏み台にして収奪した側面からであるらしい。
ゴールデンカムイは基本的にアイヌの文化を尊重して、監修の人もしっかりしていて敬意をもって書かれていると私は感じているけど、どうしても、物語の最後の最後の博物館関連の部分がずれてないか?と思ってしまうし、鶴見が言ったことややろうとしたことが特にフォローされずに済んだことも大丈夫なのか…という気持ちがある。
「原作を信じてください」とか、そりゃ作者は自信を持ってるのだろうけど、作者の発言がどれだけファン、信者的なファンにハレーションするのかっていうのはもっと考えた方がいいんじゃないかなと思った。

そんな感じで2024年もよろしくお願いします。ツイッターとBlueSkyとブログと読書メーターの間で迷子になってるけど、どこかで本やらなにやらの話をしていきたい。

パレスチナ関係の読書数冊と映画『ガザ 素顔の日常』

難民関係の本や、インドの関係など、読もうと思っているものは他にもあるのだけど、パレスチナ関係の本を読んだり映画を見たりしている。

本①基本を伝える集中講義のような新書

『世界史の中のパレスチナ問題』(臼杵陽著 講談社現代新書 2013)
歴史的な宗教の話や、近代史の話、冷戦終結後から現代にいたるまでを講義のように述べている。全部理解できてるわけではないけど、勉強になる…はず。
私はこれまで中東の人という漠然としたイメージしか持っておらず、ユダヤ教徒キリスト教徒がいる(いた)ことや、例えばアラブとトルコで言葉等が異なるという認識がほぼなかったし、イギリスが酷いし、ナクバが何かについても、ハマスに病院を運営するような慈善部門があることも初めて知った。(ほかに、日本は関係ないと思われがちだけど戦前にパレスチナ委任統治になるときに日本は連合国側にいたという指摘があったり、日猶同祖論の話だとかも出てくる)
ただ、固有名詞がさらっと出てきて把握しきれず「前に出たっけ?」と戸惑うことが多かったため、索引があるとよかった。電子書籍で読むと検索効くのかしら。
刊行が10年前なので、この密度で最近の10年についても読みたい。
西洋一辺倒の視点にならないように留意して書いていることがよくわかり、冷静な講義の中にも問題解決への願いみたいなものが確かに感じられ、おすすめ。
ちなみに臼杵氏は朝日新聞11月11日(土)の書評欄で「ガザの人道危機 奪われる人びとの命と暮らし」として本を3冊紹介していた。朝日新聞デジタルで有料だったから自分は図書館に紙面読みに行ったけど、今改めて見たら好書好日で読めました。

book.asahi.com

本②いとうせいこう国境なき医師団ルポ

『ガザ、西岸地区、アンマン 「国境なき医師団」を見に行く』(いとうせいこう著 講談社 2021)
今年、2023年になって増補・文庫版が出ていたらしく、そもそもこの本の前に2冊国境なき医師団関連本を書いていたらしい。気付かずにこの本から読んだ。
先の新書は研究者の人の本だけど、この本はいとうせいこうの取材ルポ。いとう氏はやっぱり感性で表現するタイプの、作家、クリエイターだなあと思う。
取材は2019年。取材しているのは国境なき医師団(MSF)の病院なのだが、ガザではイスラエル軍に撃たれた場合(デモで足を撃たれる話)は、最初にハマスの公的病院に行く、という話があった。
デモで足を撃たれる話は、この後に見た映像、読んだ本にも出てきたけど、具体的にどのように人体を大きく損傷させるかはこの本の内容が伝わりやすい…ように思う。イスラエルのドローンによる監視の話などもそうで、いとう氏の目を通して説明される内容は、その恐ろしさや残酷さがイメージしやすい(ただ、それがどれだけ正確なのかは、私には判断しがたいところがある)。
この時取材した医師たちや、若い男性、少年や、女の子が、2023年の今どうしているか考えると居たたまれなくなってしまう。

時折音楽の話が出てくるのも、いとうせいこうの関心を示しているようであり、よい。松葉杖を取り外して、器用仕事(ブリコラージュ)的に笛にして演奏する元フルート奏者。飛び入りの音楽療法
あとは、ヨルダンの休日にバスで観光に行くくだり。バスでは終始ダンスミュージックがかかっていて、ダンスミュージック界隈で言うハチロク(八分の六拍子)で、しかも若い女性たちが最高のタイミングでハンドクラップをし続ける、ほんの少しだけ突っ込んだところに強拍を置いてノっていくという表現(正確なところは読んでほしい)がすごく良いな!と思うものの、音楽、殊にそのジャンルの音楽についての知識がないから表現されているのがどんなものなのか全然わからない。「いかにも騎馬民族的」とか言うのもそれが正しいのかはちょっとよくわからない。ただ、聞いてみたいし見てみたい。ついでに、トルココーヒーも飲んでみたいな…。
氏の著作を、私はこれまであまり読めていない。ノーライフキングはすごい!となって、想像ラジオも一応読んでおり、アプローチの仕方が文学の人だなと思った…くらい? 実はベランダものも未読のままだと思う。2023年時点で既に還暦を迎えていらっしゃることになんとなく意外な感じを受けるし、一人称が俺の文章でこういうアプローチでこういうルポを衒いもなく書くの、若い世代にはあまり真似できないスタイルなんじゃないかなと思った。高野秀行を最近初めて読んだ時も同じような感想を持った。

10分未満の映像が3本公開されているので、参考まで。松葉杖の笛はガザ編、音楽療法が出てくるのはアンマン編。
www.msf.or.jp
【ベツレヘム編】 いとうせいこうさん中東ルポ 「ガザ、西岸地区、アンマン 『国境なき医師団』を見に行く」【国境なき医師団】 - YouTube
【アンマン編】 いとうせいこうさん中東ルポ 「ガザ、西岸地区、アンマン 『国境なき医師団』を見に行く」【国境なき医師団】 - YouTube

映画『ガザ 素顔の日常』(2019)

youtu.be


2007年にガザ地区が封鎖されて以降、困難を増しているガザ。そこに今住んでいる人々(多くは難民だが、90年代に入ってきた人もいる)から、昔はもう少し違ったという状況が語られる。
本当に海が身近な土地なんだなということや、そのほかにその前に読んでいたものが色々出てきたりもして、なるほどこれか…となったりもした。
あとは、情報量が多いというか、どういう意識で何を見たらいいのかわからなくなるところもあった。言えるのは、今この土地が破壊されているということだ。
作品中でまさに、空爆により大家族の住んでいる住まいが巻き込まれる場面もあって、停電や物資不足で生活が不便ながらも(経済封鎖されている影響)楽しそうに暮らしていた人たちの生活が破壊されて、ぞっとした。
会話の字幕が出ない部分もなにか素敵な話をしてそうなリズムが、言葉にある。キービジュアルに入っているコーヒー屋のおじさんとか。

ところで、私が行った映画館のその回には、JICAの元関係者の方のアフタートークが付いていた。前のインドの映画のアフタートークが良かったので、期待していた。
その方からのメッセージは、JICAが「平和と繁栄の回廊」など経済に係わる取組をしてきたこと、世界平和に関して日本は評価されていて、アフリカや中東では色を持っていないから、それを活かしてほしいというお話だった。NHK(取材が入っていた)は「JICAパレスチナ元事務所長 “和平へ日本がリーダーシップを”」という見出しでまとめていた。
それは大事なことで、事業を広めていくというミッションがあるのだろうけど、正直なところ、日本の役割じゃなくて映画に関する話を聞きたかったな、と感じた。質疑の際、最初に「若者へのメッセージ」という質問が来たのも、この方のお話が聞きたくて見に来ている方もいるんだなあ。自分が戸惑っただけで。
映画でこうだけ実際は少し違うというところはあるか、という質問には、子どもが荒んでいると答えていらっしゃった。女性の教育の話は私も聞きたかった。この方は、接点がないから答えられないとおっしゃっていた。

本③ アラブ文学研究者のエッセイ

『ガザに地下鉄が走る日』(岡真理著 みすず書房 2018)
学生時代から中東を旅したり、仕事で赴いたりしていた著者がパレスチナ難民に寄り添う姿勢で書いている。ナクバ以後、難民となって、各地で疎外され、ないものとして扱われていきた人々の身に起きたことが繰り返し記される。

内容が多岐にわたり難しかったのだが、一番印象に残ったこととして、70年間も難民でいるということは、いつまでもテントで暮らしているわけではないということ。その認識が、本書の中で感想を書いた学生さんと同様に、私にもなかった。
建物を建てて暮らしている「難民キャンプ」もある。けれど、建物が建ったから、それでいいとはならない。何よりも元いた土地に帰還したいというのもあるし、難民として暮らしている土地では、多くの場合国民同様の権利が保障されていないというのも大きい(もっと具体的危機として、虐殺等の危険にさらされる事例もたくさん語られる)。

女性はどうなってるのかという疑問に今のところ一番しっくりくるのがこの本かなと感じた。ただし注などで挙げられている作品に、日本語未訳らしいものが多い。
民族浄化」は、集団虐殺だけではなく、強制移住等の手段で排除することだと初めて認識した。
アラブエクスプレス展(森美術館 2012)の話題が出てくる。今、少しこうして色々読んだり見たりした後であれば、当時よりもう少しわかるだろうか。
「平和と繁栄の回廊」について、イスラエルによる占領を前提にした施策だと批判的に言及されていた。
パレスチナ救急医療協会(PMRS)」というのが出てくるけれど、映画で取材されていたあの救急隊かしら、と思った。

まだ何冊か読んでいて、読んでいる間は現在のリアルタイムの状況をあまり意識できなくなってしまうのだけど、改めて考えるたび、本の中で紹介されたあの人は、あの場所は、無事であってほしいと願うことしかできない。完全な停戦を求めます。

「燃えあがる女性記者たち」とヒンドゥー展の記憶など

「燃えあがる女性記者たち」を見た。

youtu.be

インドで被差別民であるダリトの、それも女性が立ち上げた新聞社「カバル・ラハリヤ」のドキュメンタリー。インドのジャーナリストは上位カーストの男性が多い中、ダリトを中心に女性だけで、2002年にスタートした農村の開発や地方自治といった地域のニュースとフェミニズムを扱う地域新聞社が奮闘する。特に、映画が撮影されている2016年からは、youtubeを使った動画配信も始めて、草の根的に再生回数を伸ばす。動画が話題になることで、これまで放置されてきた道路の舗装や地域の医療が改善されていくという状況が描かれる。
冒頭から女性に対する性暴力の話が出てきたりとか、記者の家族関係は基本的に良好で信頼関係があるのがちゃんとわかるのに、記者たちが結婚後も仕事を続けることには決して賛成されなかったり、そのシステムの中で安全に、望むように生きるのがなんと難しいんだろうと思った。
中盤以降出てくる政治の話もなかなかのもので、選挙の候補者が女性への性暴力被害への対策を問われてはぼんやりとした政党の主義の話に終始したうえ「レイプのような精神的な問題は」と言ってみたり(精神的??)、ヒンドゥー至上主義の自警団のリーダーである若者が政策の話をされてうっとりと牛の話をしてみたり、ヒンドゥー至上主義については噂には聞いていたけど予想以上にひどいな、と思ってしまった。

私が見た回は、上映後に、インドの政治を研究しているというアジア経済研究所の湊一樹さん トークを聞くことができた。
今のインドは民主主義とは研究者には言えない、と言っていたのが印象的だった。モディ首相のもとでヒンドゥー至上主義は顕著になっているし、ウッタルプラデーシュ州首相がヒンドゥー僧なのも2期目になっていて、インドではジャーナリストが40人も殺害されていて、カバル・ラハリヤはそういうところで報道しているんだ、ということが実感された。本作に対してカバル・ラハリヤが2022年になってステートメントを出したのは、特定の政党を批判していると受け止められることに対する警戒ではとも指摘なさっていた。

ところでヒンドゥー至上主義の話で、あの人たちはお祭りを重視する、という話をされていてさ…。
最近みんぱく特別展「交感する神と人―ヒンドゥー神像の世界」を見た(面白かった!)。去年は古代オリエント博物館で「ヒンドゥーの神々の物語」もやっていたし、最近ヒンドゥーの展示多いなあ、自分も興味を持ってるから気付くのかな、RRRやインド映画その他の流行の影響で増えてんのかな…などと思ったんですけど、これひょっとするとインドの側の国策だったりするのかな。いや実際のところは、日本国内で研究者やコレクターの方々の成果を見せてもらっているのだろうし、展示自体はすごく良いものなんだけど、それでも、もしかしたらと思うと(思うだけで根拠はないです)少し考えさせられるな。

みんぱくの展示ではちょうどインドのお祭りの映像なども出ていて、夜に大きく火をたいてその周りをこの1年に生まれた子を抱きかかえて走って回るお祭りもあった。どんど焼きとかああいう感じの、多分世界中であるやつ。
映画にもお祭りの中で火をたいているところが出てきて、それは昼間に、等身大の案山子を焼いてたんですよね。多分案山子を焼くこと自体は、バーフバリでも似たようなことをやってたし、日本でもコモ焼きとかあるし…ああいう春のイメージなのかな…と思ったんですけど、映像の中のは緑の服を着た案山子で。イスラム教徒的なイメージなのかなと思った。皆オレンジのヒンドゥーのシンボルカラーを身に着けてて、その案山子は緑色の服を着ていて、周囲の人たちはまるで案山子を暴力的に扱っている、ように見えた(予告にも出てきます)。作中の記者の人たちが「対立をあおる」と言っていたし、多分、あの映像の中で焼かれていた案山子は異教徒のイメージなんだろうな。伝統文化と思われるものの中に、対立をあおるイメージを混ぜ込んでいくの怖いな。
あとは、みんぱくの展示でも感じたんだけどお祭りがだいぶ人でごった返した大騒ぎになってるからか、女性は2階の窓から見てるみたいな光景が結構あって、あっ地続きだ…と思いました。
当然ヒンドゥー教自体が全部よくないわけではないんだけど。神社自体はいけなくない筈なのに神社本庁があれなのと同じ感じで…複雑だ。

でもこういうことが実感としてわかってくると「バジュランギおじさんと、小さな迷子」もう1回見たいな。ダンスシーンの長い予告編だとだいぶアッパーに見えるけど、ヒンドゥー教の展示とか色々見た後だとハマヌーン!心臓!って思いますね。そしてこれもヒンドゥー至上主義の出てくるお話だし、素人目にも一歩間違うと女の子が非常に怖い目にあうのが明らかな場面があったし。日本語公式サイトが消滅していたけど…。

また急に「燃えあがる女性記者たち」に戻って、エンディングの打楽器の音楽よかったなあ。彼女たちの活躍は続く、という感じで終わってああいう打楽器の音楽でうきうきしてしまう。

とても全部の内容は書けないので私が感じたことと思い出したことをつぶやくだけのメモになってしまったけど、見ごたえあったし、パンフレットも解説、採録シナリオ共に充実しているのでおすすめです。

美術館行った記録等々も書きたい。今、ぐるっとパスを消化中なので。

9月、静岡県立美術館

最近まあまあ遠出していて、かつて学生の頃にお世話になった先生が「若い時旅をせねば老いての物語がない」という台詞を教えてくれたなあと思い出している。
リアルで休日もらったりしているから、多少の話の種にはなる。仕事の内容につながって話しやすいこともあればそうでないこともある。ここにも書いておこうかなと思ったままけっこう時間が過ぎている。

9月は、18きっぷの消化に静岡に行った。
静岡県立美術館展示「糸で描く物語 刺繍と、絵と、ファッションと。」を見た。
やっぱり私は民族衣装やイヌイットの壁掛けの展示が面白かったな。そしてイヌイットの壁掛けは去年北海道で見たものだった。スロヴァキアやハンガリーの刺繍がきれいだった。スカートの裏地が見えるように一部をめくって縫い留めるという衣装があっておもしろかった。

スロヴァキア各地方の民族衣装のひとつ

同時開催していた「美術館のなかの書くこと」もよかった。
キャプションが好きだな。館所蔵作品を中心に、歴史文書、書画、絵の中のサインなどなどを取り上げて、文字を書くこととという切り口で紹介している。
中でもよかったのは曽宮一念という洋画家(曽宮一念|静岡県立美術館 全所蔵作品)についての展示で、この人は後年失明してしまう。だんだん色の濃淡がわからなくなっていく中で、書をするようになる。「妻や娘の助けを借りて」とか、「視力がなくなると、書を書く際、筆が紙に着いたかどうかが見えない」とかキャプションには書いてあり、その書はいわゆる芸術的なものではないんだけれど、書きたい、という気持ちで書いている筆致ですごいなと思った。1912年から1977年までの100冊以上の日記が残されているとのことで、ずっと文字を書いてきた人なんだろうな(夢の記録もある)。失明後も行を把握する枠を使って日記を書いていたということで、筆記補助具(タイポスコープ)も展示されていた。

曽宮一念 書「夕ばえ」

曽宮一念使用の筆記具と筆記補助具


また、川村清雄という画家は、油絵で日本的な題材を描いている。油彩の中に色紙形があって散らし書きみたいになっていたりしているのが面白いなと思った。幕末に旗本の家に生まれて、明治に静岡に移住した士族で、明治の最初の頃に徳川宗家の給費生として渡米して、結果的に画業を志した人らしい。
(静岡は時節柄かやたら家康推しで、私は正直そんなに興味がないのでふ~~んという感じだったけど、士族の人が移住してきたのなら、それは家康のことも大事にするよなと思ったりした。前後関係が逆かもしれないが)

jmapps.ne.jp

ミュージアムショップを見ていたら、館長の本として『股間若衆』が置いてあり、ああ~この人か!と思った。木下直之さん。ちなみに続編が『せいきの大問題―新股間若衆―』で、ある日不意にタイトルの意味が分かって笑ってしまったんだけどこちらはまだ読んでいません。

焼津には、焼津小泉八雲記念館があった。図書館と隣接の小さな記念館で、八雲が焼津で地元の人と交流しながらくつろいで過ごしたようすとか、自筆のなんとなく味わい深い挿絵だとかを見ることができた。
因みに図書館はぎゅっとまとまっててちょっと手狭な印象で、でも中央の部分が吹き抜けになっているので空間的にはいい感じ。ピクトグラムのように魚のイラストが書架につけてあってややふしぎだった。

openphoto.app

焼津にはみんなの図書館さんかくという私設図書館? コミュニティスペース?がある。立ち寄ったら表のベンチから既に若い人が腰かけて何か作業していた。"さびれつつも新しいことをやろうとしてる部分もある商店街"の中で、目立って人がいる場所という感じがした。一箱本棚は60人くらいオーナーがいるらしい。

本屋さんも広めの焼津谷島屋登呂田店という店があった。文具なんかも一緒に扱っているからかもしれないけど、けっこう若い人などもいて興味深かった。ちなみに中心部が電車の駅から離れたところに集まっているのか、近くのスーパーも大きくて人がたくさんいた(冷凍食品コーナーが大きかった気がする)。

静岡は、2022年にブックフェスタしずおかというイベントをやったそうで、さんかくの人などが中心になっていろいろ頑張っているのかもしれない。

 

魚を食べて、さわやかに挑戦して、冷凍みかんを食べよう!と行く前には考えていた。
さわやかは40分とか待ったけれどもいただくことができた。げんこつは無理かもとしり込みしておにぎりにしたけど、たぶんげんこつでも全然いけました。ミディアムでよいか聞かれて勢いでそれでお願いしてしまったものの、自分の好みとしてはよく焼いてもらえばよかった。
おいしい魚は食べ損ねてしまって、結局駅ビル的なところのスーパーで半額になっているパックのお寿司を買って食べた。その直前に駿河屋(駿府なので本店)で推しのぬいがセールになっているのを見つけてお迎えしてしまったため、つい「お寿司一貫分…」と思ったりした。寿司はおいしかった。
冷凍みかんは着いた日の夜に静岡駅で探そうとしたけど駄目で、翌日帰りにグランドキヨスクでお会計してもらいながら駄目元で聞いたら、すぐに冷凍ケースに駆けていってすっと出してきてくれた。これなら前の日にここで買ってホテルに持ち帰って食べればよかったなと思った。

ホテルは新静岡駅の近くで立地が良かった(全然わけわかってなくて新静岡駅って新幹線か?と思ったけど違いました私鉄の駅でした)。ただ、予約サイトでチェックインが非接触とアピールされているのを見て新しいホテルなのかと思っていたら全然そんなことはなく、換気扇を回すと高校野球が始まるサイレンのような音がした。ずっとつけていられなくてすぐ消した。洗面台に平らなスペースがなくてボディソープやシャンプーのボトルや歯磨き用のコップがトイレタンクの上に置いてあり、ハンドソープは浴槽のふちのところに置かれ、シャワーを使おうとシャワーカーテンを引いたところ物陰にあることに初めて気づいた。
南京錠で固定した部屋の窓の「当ホテルから火のついたタバコを近隣住宅にむかって何度も投げ捨てる人がいます」という貼り紙もすごみがあった。

『わが町を知ってもらうなら! 北海道の図書館員が薦めるブックガイド』

calil.jp

『わが町を知ってもらうなら! 北海道の図書館員が薦めるブックガイド』
(野口武悟、青木竜馬(監修) 加藤重男(編著) 中西出版 2023)

都内かどこかのジュンク堂の図書館学の棚で見かけて、面白そう!と思ってとりあえず図書館で借りた。
中西出版は北海道は札幌の出版社。編著の加藤さんが「クルマではなく、汽車とバスとまれに飛行機、船を使い、北海道中の図書館を訪ね、聞き書きし」(p3)まとめた本。(ちなみに監修は読書バリアフリーなどがご専門の野口先生。)
道内全179市町村(多くて驚く)に「わが町を知ってもらうなら」と本の紹介をするアンケートを取り、170市町村から回答を得たそうで、ブックガイドとインタビューが組み合わさった本になっている。
なかなか編集のご苦労がしのばれる感じで、市町村によってすすめてくる本がまちまち、解題の書きぶりもまちまち。でもそれも味わい深い。恐らくものすごくローカルな人物や食文化について特にフォローもなく話題にしてくるところもあれば(郷土出版の本などこの本で見なかったら知る縁がなかったのでほんとに貴重だけど欲を言えばもっとそれが何なのかを知りたい)、町勢要覧をすすめてくるところもある。広報紙を出してくる市町村は、それなりに特色がありそう。
巻末の編集後記に「最初は「ウチの町には何もそのような書物はない」と言われた図書館員も、熟考を重ねてご回答いただきました」(p202)とある。ちなみに、『多様化の時代に対応できる図書館を目指して』(北海道図書館振興協議会 2021年3月)の「第4章 表とグラフに見る道内の公立図書館(室)」(PDF)によれば、北海道の市町村の図書館設置状況は、令和2年4月時点で58.7%(=179のうち74の自治体に、図書館が設置されていない)とのことなので、状況は本当にいろいろなんだろうなと思う。

交通アクセスの話題になると、案外駅近くにあるという説明の図書館も多い。でもその中にも、近年廃線になったとか、今後廃線になる予定とかいうところもあった。路線があるうちに、この本も参照しながら行ってみたい。それにしても北海道は広いので、どこからどう行くか迷うけど。

「リトルベアー」シリーズ(リン・リードバンクス)

書いてまとめて残してたいことが色々あるのだけど、きちんとブログ記事にするという習慣が身についてないので、順不同で書けたら書く。

少し前に、前々から再読したいと思ってたリン・リードバンクスの「リトルベアー」シリーズを読んだ。1作目の原書1981年、日本語訳1990年、1995年。日本の読者として3部作だと思っていたけど、原書は5作あるらしい。

やはりプラスチックの人形が、戸棚に入れて鍵をかけると本物になる。というか、どこかで生きている本物の人間を人形サイズにして連れてきてしまう、という設定は面白い。人形サイズになってもそれは尊厳のある実際の人なのだ。
最初、主人公のオムリはリトルベアーのことを、自分の所持する人形の意味で「ぼくのインディアン」というけど、段々それが一人の人間だという重さもわかってくる。
オムリが9歳とか10歳とかの向こう見ずさで結構無茶なことをするので、大人としてはひやひやする(友人のパトリックは輪をかけて向こう見ずで大変)。
死の描き方などがビターなのはイギリスのファンタジーらしいなあという勝手なイメージ。でもそれなら、なぜイギリスなのに「インディアン」ものにしたんだろうなあ。

80年代原著でさすがにちょっと時代を感じる部分があるのと、「インディアン」を扱う作品なので、ここに至るまでいろいろ議論というか批判もあったらしい(小峰書店1995年版巻末には既に「インディアンというよび方について」という注意書きが付いていて、「このごろでは、誇りをもって自分たちをネイティブ・アメリカン(もとからいたアメリカ人)とよんでほしいと主張する人もいます。この本では、原書にしたがってインディアンということばをつかいました」とある)。
主人公のオムリはインディアンだからではなく、相手(人形)が誰であっても大人としてはちょっと待てよという行動をしてしまうことがある。だからオムリが「インディアン」を意識的に軽んじているわけではない…はずだ。でも問題は、それ以前の作品上の描写が正しくなかった場合だ。私含め読者は、何が正しくて何が間違っているのかわからないので、そのままそういうものかと思ってしまうだろう。イギリスで出た原書では「リトルブル」という名前だったのが、アメリカ版では編集者から、イロコイは牛に縁がないという指摘を受けて「リトルベア」にしたという話など、結構適当だったんだなあと感じた。
英語版ウィキペディアに少し記載があるけれど、やはり当事者の方が読んだときにバイアスがあると受け止められる内容はよくないな。

The Indian in the Cupboard - Wikipedia

あとは、3作目の武器の介入のあたりとか物語として倫理的にまずくないか…葛藤はあるけど現代の作品だったら多分こうはならないという無茶をしている。

でも人形が本物になってその尊厳がある設定、本当に好きなんですよね。仮に自分が人形ものの作品リストを作るとしたら入れたい。注意書き付けたりして…対象年齢にもよるけど…何とかならないだろうか。
ちなみに、同じ設定で日本の作品だったら、忍者の虚実に迫ったりしてほしい。

80年代かあ…と思ったけど、『ルドルフとイッパイアッテナ』も80年代後半(1986年)のスタートだから、改めて考えるとルドルフは普通に続編が出続けてるのすごい。2020年に出たノラねこブッチーをまだ読めてない。こちらも再読したい。