『イシ 二つの世界に生きたインディアンの物語』

『イシ 二つの世界に生きたインディアンの物語』(シオドーラ・クローバー作 中野好夫訳、中村妙子訳 岩波書店 1977)を読んだ。実在のヤヒ族のイシ(1916年没)について、文化人類学者のシオドーラ・クローバーが1960年代に書いた著作の児童書版。

中盤にかけてのイシの少年期からの半生は、物語の始まりから奪われた状態で、白人に見つからないように、祖父母、母、おじ、従妹のトゥシと別の村の生き残りティマウイのと、峡谷に隠れ住んでいる。この暮らしぶりはヤヒ族の元々の生活とは違う不自由な状態で、白人に見つかると殺されたり(読んでいてもなぜそんなことが起こるのか理解しがたいのだけど、白人は頭の皮を剥いで持ち帰っている。賞金が出るとかそういうことなのか?)、元の生活を捨てさせられ強制移住させられたりするから、隠れ住んでいる。元あった集落は滅んでしまっている。
そういう生活の中でも祖父母やおじは子どもたちに民族の神話などを教え、季節の行事を行ったり暮らしの知恵を与えたりしている。
この本の大人向け版が『イシ 北米最後の野生インディアン』というタイトルなことは知っていたため、要するにイシは一緒にいる家族たちを失って一人になってしまうんだなという予想をしながら読んでいく。重苦しい気持ちだった。

後半で、一人になったイシは白人社会に「発見」される。殺されると思ったイシだけど、既に白人と接触なく生きた先住民は珍しくなっており(どうしてそうなったのか考えるとひどい)、保護される。それでも大衆に失礼な扱いを受けたりもするが、中には親切な人もいた。
やってきた博物館の研究者が記録をもとにヤヒ族の言葉を話すことができて、コミュニケーションをとることができるようになった。イシは博物館のマジャパ(頭、族長)らに心を開き、博物館の人々もイシを尊重して、ヤヒ族の習慣や考え方を学びながら、博物館で暮らしました…という内容。

前半が全体的に重苦しいだけに、マジャパたちとヤヒのやり取りはほっとするし、言葉を記録して残せば後代の人に伝えることができて、ヤヒ族の世界はなくならない、という考え方は素敵だ。けれども、著者シオドーラ・クローバーがマジャパに当たる人(だよね?)の再婚相手なので、ちょっとどう評価したらいいのかわからないなあ、とは思う。
受け皿が博物館というのもなんというか、生身の人間が相手なのにもっと何かないのか…!と感じてしまう。博物館の人たちは誠意をもってやっていたのだとしても。

大人向けのほうを読んでみないと理解が深まらない気がするので、追って読みます。

それとどうしても気になったので書いておくと、巻末に中野好夫の訳者あとがきに関して。
著者について、「シオドーラさんというのは、(中略)アルフレッド・クローバー教授の未亡人」、「改めてシオドーラさんが故夫君の遺志をついで書き上げた」等とある。
今ネットでちょっと調べてみただけでも、シオドーラさんは研究者としてのキャリアが、アルフレッド・クローバーほどでないにしても確かにあったようなのに、全く触れられていない(シオドーラの娘がル・グウィンであることも触れらていないけど刊行時にはまだ知名度が追いついていなかったのだろうか)。
これだけだとまあ、そういうこともあるかな、という感じなのだが、最後の最後に「ただ最後に中村妙子との共訳ということだけには、一言釈明をしておきます。もちろん、訳出はすべて妙子の労で、わたしはただ校正刷を一読しただけです。まったくといってもよいほど筆を加える必要はありませんでした。」として、よくわからない歯切れの悪い記述が連なっている。
本人の意思というよりも大人の事情で中野・中村共訳の扱いになっているということだと思うが、本当にまったくといってよいほど筆を加えてないならば、中野氏が筆頭なのもあとがきを書いているのも、なぜ?と思う。中野氏が書いている通り、中村妙子は児童書の翻訳もたくさん出しているから、当時よくあることだったとしても、おかしな感じがする。
あとついでに「彼等が最後まで守りつづけていた原始生活の姿」という表現は今の本だったら「原始生活」という表現はあまりしないだろうなと思う。

いずれにしろ、1910年代に起こった出来事を1960年代に書いた本の1970年代の訳なので、そういう歴史的な経緯を考えながら読む必要があるなあ、と思った。英語圏ではちゃんと批評があるみたいだけれども…。