板橋区立美術館「シュルレアリスムと日本」と板橋区立郷土資料館

前の記事から2カ月以上あいている…! あれ書いてこれ書いてということはあるのだけど、とりあえずBlueSkyに投稿したりしていました。

板橋区立美術館「『シュルレアリスム宣言』100年 シュルレアリスムと日本」を見てきた。
戦争に向かう近代日本の中でどんなふうに存在していたのかが少し分かったような気もするが、作家や作品自体についてももっと知りたかったかなあ、と思う。たぶんコンテキストがわかったほうがいい。わからん!となってしまったので。

ざっくりと気になった作品と、画像が載ったページが見つかったものはURLを貼っておく。

阿部金剛「Rien No.1」(1929)
fukuoka-kenbi.jp
シュルレアリスムの画家というよりは先駆者として紹介されていた。
空に浮かぶなんだかよくわからない物体と、断ち切られたビルなど。
リンク先の記事は結構面白かった。私は雲かな、動くの速いのかなと思って見ていた。

吉加江京司(清) 「葉(葉脈の構成)」(1939)
www.momat.go.jp
なんか好きだな。

石田順治「作品2」(1939)
岩場みたいな風景で、朱色のような、緑のような、色の加減がとても素敵だった。全然画像が見つけられなかった。

平井輝七「風」(1938)
collection.topmuseum.jp
カーテンらしきもののはためきから感じられる風と、奥にある扉(壁はない)と、それら全部の後ろにある空の具合が素敵。人間の頭の形?のオブジェはよくわからない。

堀田操「断章」(1953)
断章 / 水木しげる元ねたコレクション
なぜか「水木しげる元ねたコレクション」なるページで紹介されていた。水木しげる作品で引用されていたらしい。
荒れた前景と、遠くに見えるデパートのアドバルーンみたいなもの。それでも地面の隙間から出てきているのは植物の芽?

その後、隣にある板橋区立郷土資料館に寄った。入場無料だけど常設展で板橋の歴史がコンパクトに紹介されている。
今回は「いたばしの文人たち」というコレクション展をやっていて、全然知らない人だけど相沢朮という人の和歌の一つがちょっといいなと思った。
「ゆくりなくうれしきものはほとゝきす 人伝ならぬはつねなりけり」

歌「初聞時鳥」(相沢朮)

あと、新収蔵資料として「なりもす駅」駅名標が展示されていた。東武東上線成増駅が、2022年3月のモスバーガー創業50周年記念でモスバーガーとコラボした際のもの。モスの一号店は成増にあったのだそうです。

なりもす駅の駅名標

資料館の中庭みたいなところに旧田中家住宅が移築されていて、民具等々が所せましと置いてある。石臼を回したりしながら家の中を通り抜けて奥に進んでいくと、石仏みたいなものが並んでいて、その横にニリンソウのエリアがあるのも以前行った時と同じだった。赤塚はニリンソウの自生地だとのこと。
区の花ニリンソウ|板橋区公式ホームページ

ニリンソウ

…とそういう風に見ていて、外がいやにうるさいな動物のまねをしている中高生でもいるのかな、と外を見たら、道の向こうの家の塀からヤギが顔を出していて、全部持って行かれてしまった。顔を出してはめえめえ結構な大声で鳴いて、塀に絡んでいる植物の葉を齧っていた。

道路の向こうの塀から顔を出すヤギ

帰りに塀の前の道路まで近づいてみたら、塀の穴になってるところから顔を出してこっちを見ようとしてきた。わあーと思いながら見ていたら口をブッてされた。特にちょっかいを出したりはしていないけど、いるだけで嫌がられたかもしれない。

道路にいるこちらを見下ろすヤギ

行きは西高島平駅から歩き、帰りは下赤塚駅まで歩いた。西高島平側は高架沿いで面白くないけど、下赤塚方面は住宅地で、石仏があったり滝があったりして楽しいな。赤塚駅近くのモスバーガーで食事をして帰ってきました。

9月、静岡県立美術館

最近まあまあ遠出していて、かつて学生の頃にお世話になった先生が「若い時旅をせねば老いての物語がない」という台詞を教えてくれたなあと思い出している。
リアルで休日もらったりしているから、多少の話の種にはなる。仕事の内容につながって話しやすいこともあればそうでないこともある。ここにも書いておこうかなと思ったままけっこう時間が過ぎている。

9月は、18きっぷの消化に静岡に行った。
静岡県立美術館展示「糸で描く物語 刺繍と、絵と、ファッションと。」を見た。
やっぱり私は民族衣装やイヌイットの壁掛けの展示が面白かったな。そしてイヌイットの壁掛けは去年北海道で見たものだった。スロヴァキアやハンガリーの刺繍がきれいだった。スカートの裏地が見えるように一部をめくって縫い留めるという衣装があっておもしろかった。

スロヴァキア各地方の民族衣装のひとつ

同時開催していた「美術館のなかの書くこと」もよかった。
キャプションが好きだな。館所蔵作品を中心に、歴史文書、書画、絵の中のサインなどなどを取り上げて、文字を書くこととという切り口で紹介している。
中でもよかったのは曽宮一念という洋画家(曽宮一念|静岡県立美術館 全所蔵作品)についての展示で、この人は後年失明してしまう。だんだん色の濃淡がわからなくなっていく中で、書をするようになる。「妻や娘の助けを借りて」とか、「視力がなくなると、書を書く際、筆が紙に着いたかどうかが見えない」とかキャプションには書いてあり、その書はいわゆる芸術的なものではないんだけれど、書きたい、という気持ちで書いている筆致ですごいなと思った。1912年から1977年までの100冊以上の日記が残されているとのことで、ずっと文字を書いてきた人なんだろうな(夢の記録もある)。失明後も行を把握する枠を使って日記を書いていたということで、筆記補助具(タイポスコープ)も展示されていた。

曽宮一念 書「夕ばえ」

曽宮一念使用の筆記具と筆記補助具


また、川村清雄という画家は、油絵で日本的な題材を描いている。油彩の中に色紙形があって散らし書きみたいになっていたりしているのが面白いなと思った。幕末に旗本の家に生まれて、明治に静岡に移住した士族で、明治の最初の頃に徳川宗家の給費生として渡米して、結果的に画業を志した人らしい。
(静岡は時節柄かやたら家康推しで、私は正直そんなに興味がないのでふ~~んという感じだったけど、士族の人が移住してきたのなら、それは家康のことも大事にするよなと思ったりした。前後関係が逆かもしれないが)

jmapps.ne.jp

ミュージアムショップを見ていたら、館長の本として『股間若衆』が置いてあり、ああ~この人か!と思った。木下直之さん。ちなみに続編が『せいきの大問題―新股間若衆―』で、ある日不意にタイトルの意味が分かって笑ってしまったんだけどこちらはまだ読んでいません。

焼津には、焼津小泉八雲記念館があった。図書館と隣接の小さな記念館で、八雲が焼津で地元の人と交流しながらくつろいで過ごしたようすとか、自筆のなんとなく味わい深い挿絵だとかを見ることができた。
因みに図書館はぎゅっとまとまっててちょっと手狭な印象で、でも中央の部分が吹き抜けになっているので空間的にはいい感じ。ピクトグラムのように魚のイラストが書架につけてあってややふしぎだった。

openphoto.app

焼津にはみんなの図書館さんかくという私設図書館? コミュニティスペース?がある。立ち寄ったら表のベンチから既に若い人が腰かけて何か作業していた。"さびれつつも新しいことをやろうとしてる部分もある商店街"の中で、目立って人がいる場所という感じがした。一箱本棚は60人くらいオーナーがいるらしい。

本屋さんも広めの焼津谷島屋登呂田店という店があった。文具なんかも一緒に扱っているからかもしれないけど、けっこう若い人などもいて興味深かった。ちなみに中心部が電車の駅から離れたところに集まっているのか、近くのスーパーも大きくて人がたくさんいた(冷凍食品コーナーが大きかった気がする)。

静岡は、2022年にブックフェスタしずおかというイベントをやったそうで、さんかくの人などが中心になっていろいろ頑張っているのかもしれない。

 

魚を食べて、さわやかに挑戦して、冷凍みかんを食べよう!と行く前には考えていた。
さわやかは40分とか待ったけれどもいただくことができた。げんこつは無理かもとしり込みしておにぎりにしたけど、たぶんげんこつでも全然いけました。ミディアムでよいか聞かれて勢いでそれでお願いしてしまったものの、自分の好みとしてはよく焼いてもらえばよかった。
おいしい魚は食べ損ねてしまって、結局駅ビル的なところのスーパーで半額になっているパックのお寿司を買って食べた。その直前に駿河屋(駿府なので本店)で推しのぬいがセールになっているのを見つけてお迎えしてしまったため、つい「お寿司一貫分…」と思ったりした。寿司はおいしかった。
冷凍みかんは着いた日の夜に静岡駅で探そうとしたけど駄目で、翌日帰りにグランドキヨスクでお会計してもらいながら駄目元で聞いたら、すぐに冷凍ケースに駆けていってすっと出してきてくれた。これなら前の日にここで買ってホテルに持ち帰って食べればよかったなと思った。

ホテルは新静岡駅の近くで立地が良かった(全然わけわかってなくて新静岡駅って新幹線か?と思ったけど違いました私鉄の駅でした)。ただ、予約サイトでチェックインが非接触とアピールされているのを見て新しいホテルなのかと思っていたら全然そんなことはなく、換気扇を回すと高校野球が始まるサイレンのような音がした。ずっとつけていられなくてすぐ消した。洗面台に平らなスペースがなくてボディソープやシャンプーのボトルや歯磨き用のコップがトイレタンクの上に置いてあり、ハンドソープは浴槽のふちのところに置かれ、シャワーを使おうとシャワーカーテンを引いたところ物陰にあることに初めて気づいた。
南京錠で固定した部屋の窓の「当ホテルから火のついたタバコを近隣住宅にむかって何度も投げ捨てる人がいます」という貼り紙もすごみがあった。

谷川俊太郎絵本★百貨展と日野の歴史館など

谷川俊太郎

立川のPLAY! MUSEUMの企画展示 「谷川俊太郎 絵本★百貨展」を見に行った。
展示が体験型で、子どもだったら楽しいだろうなあ…と思った。実際子どもがたくさん遊んでいた。『こっぷ』のでっかいコップのオブジェ、さすがに大人は入りがたい。
多数の作品のある谷川さんだけど、絵本のいくつかをピックアップした展示だった。私は詩人としての谷川俊太郎にも詳しくないし、絵本も全部好きってわけじゃないので、わーい!となる作品と、そうでもない作品とわりとくっきり分かれてしまった。
『ままですすきですすてきです』(タイガー立石が好きなので)、谷川さん本人の朗読が流れる『えをかく』(聞きながら長新太の絵を辿って歩いた)、これも本人朗読の『もこもこもこ』の映像などなど。
もこもこもこは幼児が(本当は絵本で読んでいて好きらしいのに)泣いて出てきたのと、中にいた小学生の結構大きい子どもが「ぎらぎら」の後に先取りで「ぱちん!」と言っていたのが印象的だった。
つみあげうたの2016年の新作が出てたけど、つみあげうただったらやっぱり『これはのみのぴこ』だなあ、と思う。『これはおひさま』も良いですが。
あとは、新作「すきのあいうえお」のインスタレーションも意外なものが出てきて面白かった。

グッズが色々あって、朝のリレーのトートバッグや、「こっぷ」のTシャツがちょっとうらやましかった。入場特典が何故かトイレットペーパーだった。
レストランのコラボメニューも見ているだけでかわいかった。「のりまきです」はのりまき→きんぴら→ラフテーでしりとりになっている。

「ままですすきですすてきです」(タイガー立石・絵)

 

日野(新撰組関係)

PLAY! MUSEUM行きを画策しているときに日野は立川の近くなんだなあと気付き、ついでに資料館を見に行った。近くというか隣の駅だった。市部の位置関係が全然把握できてない。
日野にはどうやら土方歳三資料館(休館中)や井上源三郎資料館、佐藤彦五郎新選組資料館と複数あるらしい。今回私が寄れたのは日野市立新選組のふるさと歴史館で、市立の博物館だ。
江戸時代の日野宿の歴史などに触れつつ、この土地に天然理心流や新選組が出てきた背景などにも触れられている。さらに、その後の自由民権運動の志との繋がりみたいな話にもなってて、地元の人のアイデンティティとしてこういうふうに位置づけられるんだなあと思った。それが地元の人のあいだでも一般的な認識かはわからないけど、そういえばこの地域は図書館も盛んだったものなあ。
あとは2階の企画展が「描かれた新選組IX」という、色んな創作物に言及する展示の何シーズン目かだった。司馬遼太郎の影響は大きいけれど最近もいろいろあるよという話で面白かった。「鬼の副長」はしばりょの造語かもというようなキャプションが印象に残った。

本当は更に隣の駅にある日野市の中央図書館にも行ってみたかったのだけど、時間に余裕がなさそうだったため、甲州街道沿いの日野図書館に寄る。和風な見た目に素敵に作ってあるけれど、中は入ってすぐ片側の壁が文庫の棚(入りきらなくて横積みになってた)、新聞や雑誌のコーナーがあって、普通の昔からある地域館という感じ……と思いきや、2階の郷土資料コーナーの新選組充実具合がすごかった。多数出ている新選組関連を網羅的にコレクションしているらしく、フロアの一角、体感で8畳間くらいのスペースの3面が中書架で全部新選組コーナーという様相。抜き刷りのファイルなどもあった。やっぱり土方歳三関係の本が多かった。
見たかった本を探そうとして、似たようなタイトルの本が多すぎて目が泳いでしまった(ちゃんとありました)。
個人的には『描かれた新選組(改訂増補版)』(日野市立新選組のふるさと歴史館叢書)に「行殺新選組」(©ライアーソフト)も紹介されていて、18歳未満は購入・プレイできませんみたいなことが書いてあったのが面白かった。でも2000年に出たらしいので、確かに時代を先走ってたんだろうなあ。

土方歳三没後150年記念のデザインマンホール(日野駅

丸木美術館とハンセン病資料館と。

個人的な備忘録のようなリンク集のような記事ですが、長くなったので目次を使ってみる。

丸木美術館

4月中旬に、原爆の図 丸木美術館に企画展「趙根在写真展 地底の闇、地上の光―炭鉱、朝鮮人ハンセン病―」を見に行った。

美術館は、埼玉の東松山市にある。それがどこなのかはっきりわからないまま、乗換案内に従って電車に乗っていった。川越よりも川越市よりも先(二つの駅は違う)、「つきのわ」駅から徒歩30分。google mapに従って歩くと、ずいぶん細い道を案内され、雨上がりの道の脇では熱帯地方みたいなサイズ感の笠を被ったご近所の人が草の手入れをしていて、内心ここ通ってよかったのかな…と思った(挨拶はしました)。とにかく素朴な環境の中に美術館があった。

企画展「趙根在写真展」

企画展は、広い展示スペースに、1960年代から1980年頃までに全国の複数のハンセン病療養所を訪問して写真を撮影した趙根在さんの写真を並べていた。写真は療養所ごとに分かれていて、生活の一場面だったり、風景だったり、入所者の方を正面から撮ったりしているものもある。全てモノクロで撮影されている。
趙氏は在日朝鮮人の入所者の方の撮影という条件から始まって、関係を築く中で、それ以外の方の写真も撮るようになった。あまり気負った感じがしないというか、日常風景は自然であり、入所者の方ともきちんと向き合っている感じがする。
図録は写真以外の部分も充実しており、過去に雑誌に連載していた趙氏の回想録「ハンセン病の同胞たち」に結構なボリュームを割いている。これは療養所の撮影に至る前の、氏の炭鉱で育った幼少期からの来歴を語るもの。そして療養所関係でも、単純に「入所者の方の撮影」「関係を築く」と書いてしまったけれど、生のエピソードはそんな言葉に要約できるものではないと感じさせられる内容だった。
展示のキャプションにも書いてあるとおり、最初の撮影は、病気の後遺症で障害の残った男性が、介助してもらいながら煙草を一服する場面。手が不自由なため、三つ切りにした短いものを、キセルに挿して火を移してもらって味わっている姿だ。その場面を急に撮影させてもらえることになったときの、戸惑いとか必死さが回想録にはありありと書かれているし、またこの撮影対象となった方の人生においてそれはどういう場面だったかということも、わかる。
先行する写真集として『離された園』(岩波写真文庫 1956)という写真集があり、これについて趙氏は回想録の中で、文面・写真ともに血が通っていないと表現していた。この写真集は、厚生省から岩波に療養所に関する1冊を編むように相談を受け、療養所に暮らす方々が自ら写真を撮ったもの。岩波写真文庫シリーズの1冊で、2008年には復刻版が出ている。
復刻版を眺めてみたけど、確かに今でも誰かが何か公的な記録の写真を撮ろうとして、配慮したらこうなるだろうと思わせるものだった(仕事で、記録のため顔が映らないように写真を撮らせてもらったことなどがあり、同じ気配を感じる)。けれども天下の岩波写真文庫に入れば多くの人の目に触れるだろうから、無理からぬことだと思う。
性質の違いを考えると、趙氏が思い立って行動したことから、1960、70年代の写真が残されて、こうしていま見ることができるのは、とても貴重なことだった。

常設「原爆の図」

丸木美術館は原爆の図の1部から14部を常設展示している。私は1階の展示室にある第9部「焼津」・第10図「署名」から見始めて、1階常設展から趙氏の写真展を見て、その後に2階の原爆の図に回った。いわゆる一般にイメージされる、原爆直後の広島の情景を描いた図は、2階に多く並べられている。
原爆の図は、屏風のように仕立てられていて、大きい。近づいて細部を見てしまったので、2階の絵はあまりにもつらく、もういっぱいだ、という気持ちになった。
「焼津」「署名」は第五福竜丸に関連した作品で、特に「焼津」は画面の左隻に町の?人々が立ってもの言いたげにこちらを見つめており(右隻に第五福竜丸が影のように浮かんでいるのでそれを見ているのか)、前に立つと何か問いかけられているような気がした。因みに『《原爆の図》のある美術館』(岡村幸宣 岩波書店 2017)によると、1967年の画集では「作者の強い希望」で「焼津」「署名」を収録から外したそうで、必ずしも評価が良かったわけではないらしい。ただ、後から思うと、「焼津」「署名」には日常を暮らす人が描かれているが、それ以外の絵では、衣服から何から、個々の人間であることを奪われた状態の人々が重なったりもつれたりしている姿が現されていて、写真を見た流れとのギャップで、ショックだったのだろうと思う。あとは、女性があんなにも多いのは現実の姿なんだろうかと感じてしまったのも、色々な意味で、つらい。
最後のほうで、引きで見れば、もう少し全体を見られる、ということに気づいた。
ちなみに、私が行ったときは基本人が少なくて静かな空間だったけど、昨今の大学生の社会への関わり方について、ある展示室のスタッフの人?に何か持論を述べている来館者?の声がずっと、別のフロアまで響いてきた。それがどうにも耐えがたく、その声がする部屋には入れなかったため、そこで何をやっていたのか不明なままだった。
私が至らず、施設の持つパワーに負けてしまった感じがした。
大道あやの絵があるのはほっとした。

 

国立ハンセン病資料館

5月3日に、国立ハンセン病資料館の企画展「ハンセン病文学の新生面 『いのちの芽』の詩人たち」を見に行った。
ハンセン病資料館自体は、去年「生活のデザイン」で初めて訪問した。その際に常設展を見たので(これは必見)、今回は企画展に集中することにする。
秋津駅の近くのエジプト料理屋さんでランチをいただいて、20分ほど歩いて1時頃には着く。そこから小1時間展示を見ながら、2時からのギャラリートークを待っていた。担当学芸員の方によるギャラリートークは30分程度、定員は10名、事前予約なしとのことだった。時間が近づくにつれどんどん人が増えてきて、定刻には展示室の外にたくさんの人が待機していた(私は展示室の中にいたので、出てみてちょっと驚いた)。そこで急遽、2時からと3時から、2回に分けて実施ということになり、私は3時からの回でも大丈夫だったので、更に小一時間、受付に詩集をもらいにいったり、図書室で関連資料を見たりしながら過ごした。

展示「ハンセン病文学の新生面『いのちの芽』の詩人たち」

『いのちの芽』は1953年に刊行された詩集で、全国8つのハンセン病療養所から73人が参加している。各療養所でそれぞれ文芸活動が行われ作品が発表されていたが、合同詩集としては初めてのものである。
北条民雄などに代表されるような戦前の文学をも乗り越える意志で、創作活動をする人々が現れたことなどが紹介されている。詩のパネル(全作品ではない。22人の25作品)がテーマに分けて展示され、作者の簡易なプロフィールのパネルと、自筆の書簡などが示されている。
また、参加した詩人たちのその後の活動が紹介されている。ハーモニカバンド「青い鳥」を結成した近藤宏一(小島浩二)さんや、長島愛生園の架橋運動の際に「人間回復の橋」と詩の言葉によってネーミングした島村静雨、国賠訴訟の原告となった人々など。

ミュージアムトーク

オンライン版があるのでぜひ見てほしい。

「ハンセン病文学の新生面 『いのちの芽』の詩人たち」をめぐって」/木村哲也(国立ハンセン病資料館学芸員)ミュージアムトーク2022(オンライン開催)第6回 - YouTube

ミュージアムトークを聞かなかったら思い至らなかったな、という点が私には多々あったので本当に聞けて良かった。会場で伺った内容と、動画(資料紹介や質疑応答は+αとなっている)でわかった内容と、両方あるが、次のようなところ。

  • 「いのちの芽」の原稿は失われているが、編者大江満雄の遺品が高知県立文学館に寄贈されていて、目録から、大江宛の書簡の中にハンセン病療養所の詩人の方のものが含まれていることがわかった。私信なので公開は難しいと考えられたが、関係者(ご遺族や、園の方)の許可を得ることで展示することができた。(こういう経緯で展示が企画されていたんだな、というのがわかって、よかった。あまり自筆書簡類に注目していなかったので…。)
  • 復刊に当たっても、各作者の関係者に許可を取る処理を行い、復刊することができた。
  • ある詩人は、戸籍上の性別は男性の方、ペンネームは女性のようでもある。(この方は、著者パネルには髪の長い女性のような人の写真が載っていて、「名女形」と書かれていて、自分で見たときに「…?」と思ったので、なるほど、と思った。自身の生前の本にも写真を使っており、園では有名でもあり、展示に当たって隠すことではないと判断されたらしい)
  • 大江満雄さんの写真は、入所者の家に上がり込んで親しく話している写真であり、当時としては画期的な姿。
  • 動画からわかったこと:在日朝鮮人に対する差別が激しかったため、『いのちの芽』刊行の頃は、出自を明らかにしていなかった人が多くいた。国民年金法の施行(1959年)から、日本国籍の有無で経済格差が大きくなり、民族運動等が盛んになった。(趙氏が写真を撮り始めたのもこの後だなあ、と思った。趙氏の写真が展示パネルのプロフィール写真に使われている作者もいる)

『いのちの芽』とその詩人たちの作品

復刊された『いのちの芽』は、来館した希望者がいただくことができる。私ももらってきたのでじっくり読みたい(前回受付で貰うという発想がなかった「生活のデザイン」の図録ももらうことができた。過去の刊行物も在庫があればいただけるようだ)。

元となった1953年三一書房版についても、国立国会図書館デジタルコレクションで送信サービス参加館・登録利用者公開されている。個人登録していれば自宅でも読むことができる。
いのちの芽 : 日本ライ・ニューエイジ詩集 - 国立国会図書館デジタルコレクション

もっと作品を読みたいと思ったときに、残念ながら本を出していない方もいる。その方々も、作品が園の文芸誌等に掲載されている場合がある。
そういうとき、国立ハンセン病資料館のデータベースのうち「ハンセン病療養所自治会及び盲人会発行「機関誌」目次検索システム」で、作者名を検索すると、どの雑誌のどの号に何を掲載しているかがわかる(データベースの使い方は、同館の機関誌ご利用ガイド参照)。機関誌そのものは資料館のサイトでは見られず、来館して図書室を利用する必要がある…と学芸員さんが説明されていた。
ただし、場合によると国会デジタルでも見られる可能性があるかもしれない。読んだものの中だと私は『闇を光に』(近藤宏一 みすず書房 2010)に掲載されていた「君の手」という詩が好きなのだが、この作品の初出は「愛生」1952年4月。国立国会図書館デジタルコレクションで誌名と年月指定で検索すると、こちらもやはり参加館・登録利用者公開でヒットする。
愛生 6(4);昭和27年4月號 - 国立国会図書館デジタルコレクション
検証していないのでどの雑誌がどこまでデジタル化されているかはわからないが…。
ちなみに国立ハンセン病資料館図書室はレファ協参加館ですね。

また、2001年の鶴見俊輔が大江満雄と「いのちの芽」の詩人たちについても話している講演記録「ハンセン病との出逢いから」を収録した『国立ハンセン病資料館研究紀要』第10号(2023年3月発行)はPDFで公開されているし、今回の展示の関連動画の多くは会期終了後もアーカイブとして残されている。

いただいた『いのちの芽』や関連動画、まだこれから知って感じて考えることがたくさんあるな、と思う。

終わりに・資料館のまわりの柊

かつて、多摩全生園の周りには、入所者の脱走を妨げるために、3メートルの柊の生け垣があった。今はほとんど刈り込まれているが、高いままに残っている部分もあるとミュージアムトークの際に伺った。その場所が具体的にどこだかはわからなかったけど、確かに外周は生垣に覆われているということに帰りに初めて気づいた。
今ひとつ、写真や展示で見た場所と資料館のその場所とが結び付いていなかったのだが、確かにこの場所なんだと実感がやっとわいた。全生園には今でも暮らしている回復者の方がいて、少なくとも昨夏は感染症対策のために一般の人は立ち入り禁止という掲示が出ていた(今回はどうだったか定かでない)。コロナの警戒態勢が解除になったら、扱いが変わるのだろうか。前回も今回も、資料館を見るだけでいっぱいいっぱいだったので、次に行くときにはもう少し資料館周辺のことも調べて、臨みたい。

ハンセン病資料館の近くの刈り込まれた柊の生垣

敷地の外周(地図で見ると矢嶋公園)の柊が高かった部分



水戸と古河へ行った記録

水戸の梅茨城県立歴史館の特別展「鹿島と香取」を見て、そのあと古河歴史博物館に「雪の殿さま 土井利位」を見に行った。

古河と水戸は全然近くないけど、梅の時期は決まっているし、「雪の殿さま」だって終期があるからあまり猶予がない。どうせなら茨城県内の広い範囲で使える「ときわ路パス」で移動しようと思い立った。
エリア内の券売機でしか販売しておらず、一度降りてパスを買う必要がある。東京側の端は取手。6時半頃に着いて、パスが買える一番複雑な券売機に並ぶ。私の前に二人、並んでいて、朝からこんなに人が…と思う。
あと、今鉄道150周年記念でやっているJR東日本の「懐かしの駅スタンプラリー」のスタンプ台にもガチ勢らしき人が数人並んでいた。私もまだ1駅分しか押してない台紙を鞄に携えていたので、並んで押した。並んでる人たちはみんな50駅制覇用の拡張台紙を持っていた。

水戸駅に着いたのは8時頃。駅の階段を下りたバスターミナルの目の前に、ちょうど偕楽園に止まるバスがいて、整理係みたいな人が立っていて、もうドアを閉めたバスを慌てて呼び止めて乗せてくれた。乗るときタッチしたらPASMOが使えず(ローカルなICカードのみ可だった)、整理券を取る。
歴史館偕楽園みたいな名前のバス停で降りた。早速方向がわからなくなる。一緒に降りたマダムと同行する。マダムは、観光案内で種々リーフレットなどたくさんもらっていて、地図を見ながら一緒に歩く(一度正しい道を見つけると、路面や壁にガイドが書いてあって分かりやすかった)。関西から旅行でいらしたそうだった。

表門から入って竹林の側から回るのが斉昭公の意図に合っているとの解説がリーフレットにあり、何も考えずに表門側に辿り着いていたから、その通りに回る。竹林と杉林を通って、吐玉泉を見て歩く。特に竹林と杉林は朝早かったのもあって人が少なく、しんとしていた。あと日がさえぎられて結構寒い。偕楽園は昔来たことがあるはずなんだけど、こういう歩き方をした記憶は全然ない。忘れているだけかもしれないけど。
好文亭に着くと流石に人がいて、いるんだなと思う。なんか趣深い感じに松や梅が植わっている。靴を脱いで中に入ると板張りの床が冷えている。古い木なので摺り足で歩かないでください、というような事が書いてある。襖などがきれいな部屋を見学しながら外の廊下を歩く感じ。廊下の幅が狭くて、日陰になっている部分はとても冷たくて、でも日が当たっているところは温かかった。庭園が見渡せる場所などここに座って眺めてたいなあと思ったけど、完全に通路だったのでやめておく(後で園内を歩いていると縁側に座ってる人たちが見えて、してもよかったんだ!と思った)。
けど、こういう建物を当時使っていた人たちは見学者みたいに回遊だけしていたわけじゃないんだから、要所要所で座って目線を近づけてみたい。正座して生活してた筈の人たちなんだし。
上の階に向かう階段が恐ろしく急だった。

梅の開花は4割と発表されていて、4割って意外と多くない。咲いている木を見つけて愛でる感じの光景。でも、つぼみを「ポップコーンみたい」と言っている人がいて、よかった。私は白梅が好き。
梅じゃないけどいいなあと思って撮った木、後で確かめたら蝋梅だった。素心蝋梅のイメージしかなかったので…。
千波湖に妙に大きい噴水が一本立っていて、遠くから見てもなかなかのインパクトがあった。水質改善の意図もあるらしい。

来た道を戻って歴史館に回る。
歴史館は四角くて石の重厚な作りでなんだか古墳?玄室?みたいだった。かっこいい。
「鹿島と香取」は、最初は内海、後に利根川を隔てて密接な関係を持った二つの地域、二つの神宮を探る展示。宝物殿に留まらない内容で面白かった。
内海と利根川と水運の話も鯰絵も石枕も最近別の展示で見たなあ…と思ったりした。全部繋がってるのはたぶん地域性による。(実際関宿の博物館が協力していたし、ムササビ型埴輪はまたお会いしましたね!だった)

「悪路王首像」というすごく大きい悪路王の首(木製)が、首桶的なものとセットで展示されているのが生々しかった。
狛犬に、痩身の山犬型と太い獅子型という解説がついていたけどいまいち区別がつかなかった。
鹿島神宮香取神宮、行ってみたいけど、わりとアクセスが厳しい。
アンケートに答えたら木札?を貰えた。片面ずつ鹿島と香取になっている。

上の階が常設展示になっていて、オーソドックスな地域の歴史の展示だった。
佐竹の毛虫の兜があった。すごい黒々とした毛虫。

ミュージアムショップはカフェと一体になっていて小さいながらも、市販品以外はなんだかお求めやすいグッズが多かった。
日本地図センターの地図記号てぬぐいが400円しなくて、思わず買ってしまった。廃図になった地形図を使ったマップメモも、初めて現物を見てうれしくなってしまい、買った。海図ほど固くなく、ほんとにしっかりした紙のメモ。100円です。

水戸駅まで戻る途中に、靴屋さんの閉店セールで128年(!)のご愛顧に感謝している掲示を見かけたり、クレープ屋さんの周りにやたらに大きいクレープを握って嬉しそうに友達同士はしゃいでいる高校生がいるのを見かけたりした。時間に余裕があったらクレープは食べたかった。

水戸から友部駅まで出て、電車待ちの間に水戸で買っておいた駅弁を食べた。そういえば常磐線のこの辺の発車メロディは「幸せなら手をたたこう」とか「シャンゼリゼ」とか「白鳥の湖」とか凝ったのが多かった。あとドアの開閉がボタンなので「開ける」はまだしも(あっボタン押すんだった、とワンテンポ遅れはするが)、「閉める」を忘れたりタイミングを逸したりしてしまう。
友部から先の水戸線はほぼ寝ていた。終着の小山駅は栃木県(フリー切符の範囲外)。新幹線も止まるので駅としては立派。そこから宇都宮線で東京方面に進むとまたいつの間にか茨城に入って、古河、らしい。位置関係がよくわかっていない。熱海行が来たので不思議な感じだった。

15時頃古河に着く。博物館が二つと文学館がある…らしい。駅前の道から誘導するみたいに出ている道を通って、昔からあった中心街らしいところに出る(今検索したら旧日光街道だった)。文学館や博物館がある場所までは更に細い道に入っていく。元々お城があった場所らしい。
途中に煉瓦塀の立派な小学校(第一小学校)があったり、その周りの舗装に雪華のもようが使われていたり、ねこがいたりした。ねこ久しぶりに近くに寄ってきたのを見た。尻尾が短くてちょっと茶筅みたいなけばけばになっていた。

博物館の入り口はどうしてそんなに奥まっているんだ?更に階段を上がらせるのか?と思ったけど、まあお城だと思えば防護は固いほうがいい。あと入館したら館内(エントランス)が恐らく意図的にだいぶ暗くしてあってそれもびっくりした。でも職員さんは明るかった。
雪の殿さまを見に来たはずなんだけど、鷹見泉石の展示が面白かった。というか自慢の鷹見泉石!オーラが強すぎた。
展示は渡辺崋山の鷹見泉石像は国宝だ!絵画部門では一番新しいぞ!から始まる。通詞との関わりも深く海外の食べ物(ワインとか)を貰っては贈答に使う、みたいなところもいい。オランダ語の名前ももらっているし、なんか仲間たちは西洋料理の食事会みたいなのもしている。学問に関心が深く、天文図が書いてあるテーブルナプキンみたいなものがコレクションの中に残っているのは科学的興味から。もちろん雪華図説にも関わっています。面白い。
私の乏しい知識で古河について思い浮かぶことといえば「古河公方」(時代設定的に八犬伝にも出てくるやつ)だったんですが、幕末期にこんなビッグな人がいたら、時代もずっと近いし自慢だろうなあと思いました。

雪の殿さまは20年も研究して、本になるまでいずいぶんいろいろなことがあって、刊行前から知られていたらしい。それにしても手紙に使う紙や色々な調度にやたらに雪華模様を使うのややこだわりの人だな…という感がある。はんこが戦災で燃えてしまい押印した紙だけが現存している、というのが大変惜しまれる。
雪華図説が本となったことが波及して、江戸の人々に雪華の文様が普及していく、という展示になっていて、浮世絵などのほかに、上下ともに雪華総柄の狂言装束が出ていた。

ところで途中で館内放送があり、来館者がロビーに集められて、ストリートオルガンの実演が始まるとのこと。ロビーのところにそこそこ大きなストリートオルガンが置いてあって、それは1990年の開館時にオランダで作ってもらったものらしく、本体に雪の模様が描かれていたりする。
職員さんが、パンチカード状の穴の開いた長い楽譜を見せてくれて、撮影もOKですよ(一生懸命回しているところを撮られるのは恥ずかしいですが)と言ってくれて、ただ本来外で演奏するものなので大きな音がするのはご了承ください、と説明してくれる。
裏側で人が大きなハンドルを回すと、オルゴールのように鳴る。結構な大きさの音が鳴るし、ハンドルを回す勢いでオルガン自体が揺れているように見える。なんか思いもよらぬ圧のある楽器で、それが暗いロビーで鳴っているので意表を突かれて痛快だった。裏側を見てもいいと言われたので私も含めた来館者はオルガンの周りを囲んで後ろをのぞいたりしていて、多分これ本来の鑑賞法と違わないかな?と感じた。
曲はカッコーワルツで、たまに左右についてるドラムがダダダダダ!と鳴り響くのも心臓に悪い感じで本当に愉快だった。

あとほかに、奥原晴湖という女性画家も気になった。素朴な感じの文人画と、緻密な絵と、時期によって違うそうで、どちらも素敵なのですが、正直なところ何よりも、ご本人の肖像がなかなか気難しそうで良かった。

帰りはこのまま宇都宮線上りで東京側に向かった方が早いんじゃないかなという気もしたけど、きっぷを最大限使うために茨城周りで帰る。友部まで出て、常磐線を上って、ついでにスタンプラリーも押して帰ってきた。土浦駅では列車連結の待ち時間が長くて、改札出てスタンプ押して同じ電車に戻ることができた。
でも常磐線の中でフリー切符の路線図を見てて、水戸線途中の下館で乗り換えて取手まで常総線に乗って帰ってくるというルートも有効だったんだなあ!と気づいてしまった。普段絶対に乗らない路線だし、運賃もJR使ったルートより微妙に高めだったので一度体験してみても良かったと思う。JR乗ったからこそ土浦と牛久でスタンプを押せたので、まあいいけど…。